わ碁ころ幼稚園

大丈夫、ちゃんと育ってるよ

── 保育士まゆ先生の、子どもの心の声に耳をすます日々

おでこに飛んできた積み木、四回止まった鉄棒の前回り、車の中で食べたバナナ。保育士のまゆ先生が、うまくいかなかった日のことも含めて、園で子どもたちに教わったことを書きとめた、一冊完結のエッセイです。

※「わ碁ころ幼稚園」は、物語上の架空の教育世界です。この物語の登場人物・出来事は、実在の施設・人物・実績・相談事例を示すものではありません。医療、発達、心理その他の専門的判断や、個別の育児指導を行うものではありません。

はじめに — 大丈夫、あなたのまなざしはちゃんと届いてる

こんばんは。今日も、おつかれさまでした。

洗濯機はまだ回っていて、シンクにはお茶碗が二つくらい残っていて、明日の持ちものは、たぶん、あとで思い出す。子どもはようやく眠って、ふとんの中で、あなたはこのページを開いています。

……なんて、勝手に想像してすみません。でも、だいたい合っていませんか。

わたしは、まゆといいます。わ碁ころ幼稚園という小さな園で、保育士をしています。園庭のすみにはうさぎのゴッピがいて、その隣に、かめのゴッティがいます。ゴッピはよく脱走します。ゴッティは、一度も脱走したことがありません。というより、たぶん、脱走という発想がありません。

この本は、なにかを教える本ではありません。「明日からこうしましょう」も、「こうすれば伸びます」も、書いてありません。書けません。わたし自身が、毎日そんなにうまくいっていないからです。

書いてあるのは、園であったことだけです。子どもがふいに言ったこと、わたしが失敗したこと、そのとき見えた小さなもの。それだけです。

ひとつだけ、先に言わせてください。

子どもは、完璧な大人のそばで育つわけではありません。

やさしく見てくれる人のそばで、育っていきます。

見てくれる、というのは、ずっと見ていることではありません。三分の一くらい見ていて、三分の一くらい聞いていて、残りは「まあ、大丈夫だろう」と思っている。それくらいでいいのだと、わたしは子どもたちに教わりました。

だから今夜は、なにも足さなくて大丈夫です。

一章だけ読んで、そのまま眠ってください。

第1章 — おでこに飛んできた積み木

わたしが「怒る前に見る先生」になった理由

新人のころの話をします。あまり格好のいい話ではありません。

そのころのわたしは、「ちゃんとした先生」になろうとしていました。ちゃんと注意して、ちゃんと片づけさせて、ちゃんと時間どおりに終わらせる。ちゃんと、ちゃんと、ちゃんと。

その日の夕方、わたしは製作コーナーの床にしゃがんで、切れはしを集めていました。背中のほうで、がしゃん、と音がしました。振り向くと、細長い積み木がひとつ、宙を飛んでいました。

飛んでいた、というのは正確ではありません。飛んできていました。わたしのおでこに向かって。

命中しました。とてもいい音がしました。

その日の集合写真のわたしは、前髪をやたらと下ろしています。たんこぶを隠していたからです。

わたしは反射で怒りました。「投げたら、あぶないでしょ!」

投げた男の子は、それきり黙りました。唇をぎゅっと結んで、床の一点を見たまま、片づけも手伝いませんでした。わたしは、怒ったのに何も届いていない、あの居心地の悪さの中に立っていました。

通りかかった先輩の保育士さんが、ひとことだけ言いました。

「まゆちゃん、あの子、なに作ってたか見た?」

見ていませんでした。

床に残っていたのは、崩れた塔でした。ふつうの塔ではありません。細長い積み木を、寝かせずに、一本ずつ立てて、上へ上へと積んだもの。あんなふうに積むには、息を止めるくらいの集中がいります。

次の日、わたしはその子の隣にしゃがんで、聞きました。

「きのう、なにがあったの?」

その子はしばらく黙っていて、それから、床を見たまま言いました。

「せんせい、みてなかった」

たぶん、その日いちばん高く積めたのだと思います。何度か呼んだのに、わたしは背中を向けたままだった。それで、いちばん上の一本を、こっちに投げた。届く方法が、それしか思いつかなかった。

怒られるようなことを、その子はしました。それは本当です。

でも、その手前に、見てほしかった、というまっすぐな気持ちがありました。

それ以来、わたしは怒る前に、いったんその子の奥を見るようになりました。……と書けたらかっこいいのですが、正直に言うと、いまでも半分くらいは間に合っていません。「あぶない!」のほうが、いつも口から先に出ます。

でも、五回に一回でも「なにがあったの?」が間に合うと、その一回のことを、子どもは案外ずっと覚えているようです。

たんこぶをくれたその子は、いま、わたしよりずっと背が高くなりました。この前、駅ですれ違って、目が合ったら、まずわたしのおでこを見て笑いました。いまだに言われます。

「あのとき、痛かった?」

痛かったです。おかげで、忘れませんでした。

第2章 — 黒は、夜の色だから

子どもは、問いかけられると自分の言葉を見つけていく

うちの園には、六かける六の、小さな碁盤があります。

碁盤といっても、囲碁を教えているわけではありません。ルールらしいルールは、ひとつだけ。「順番に、ひとつずつ置く」。それさえ守れば、あとは何をしてもいいことにしています。石を一列に並べて電車にしても、こちらとしては大歓迎です。

石は、つるっとしていて、ひんやりしていて、置くと、パチッと鳴ります。子どもはあの音が好きなので、置きます。動機としては、それでじゅうぶんです。

その日、そうたくんとののかちゃんが、黒い石の入れものを両側から持って、にらみあっていました。

「ぼくが さきに もってた」

「わたしが きのう つかってた」

わたしの口は、また先に動きそうになりました。「順番でしょ」。この言葉はとても便利で、三秒で場が収まります。収まりますが、あとに何も残りません。

なので、聞きました。

「なにがあったの?」

二人が同時にしゃべりました。何もわかりませんでした。そこで、一人ずつ聞くことにしました。

「そうたくんは、どうして黒がいいの?」

「くろは、つよいから」

なるほど、と思いました。わかりやすい理由です。

「ののかちゃんは?」

ののかちゃんは、少し考えてから言いました。

「くろは、よるの いろだから」

「うん」

「よるは、みんな ねるでしょ。だから、やさしいの」

同じ黒い石を、二人はまったく違うものとして見ていました。かたや強さ、かたやおやすみなさい。同じ入れものを引っぱりあっていたのに、中に入っていたものは、別のものだったわけです。

そのあと、二人は勝手に決着させました。

「じゃあ、そうたくんが つよいの ばんで、わたしが やさしいの ばん」

「わかった」

そして、交互に置きはじめました。石は、全部黒です。何がどう解決したのか、わたしには最後までわかりませんでした。いちおう大人なので「それでいいの?」と聞いてみたら、二人にそろって「うん」と言われました。大人の理解は、特に必要とされていませんでした。

「ダメ」は、話を終わらせる言葉です。

「なにがあったの?」は、話を始める言葉です。

問いかけられると、子どもは、自分の中をさがしはじめます。さがして、まだ持っていない言葉を、その場でつくります。「くろは、よるのいろ」なんて言葉は、聞かれなければ、たぶん一生、外に出てきませんでした。

とはいえ、朝の七時半に「なにがあったの?」は、なかなか出てきません。わたしも出ません。出ない日は「はい、順番ね!」で大丈夫です。

一日に一回、どこかで聞けたら、それで上出来だと思っています。

第3章 — ごめん、ゴッピのお尻を見てた

“できた!”は、心の根っこに咲く花

そうたくんは、鉄棒の前回りが、なかなかできませんでした。

正確に言うと、途中までは毎回できます。おなかを鉄棒にのせて、上半身を前に倒すところまで。そこで、止まります。世界がさかさまになる、そのぎりぎり手前で、必ず止まる。そして、ゆっくり足からおりてきて、手のひらの砂をぱんぱんと払って、また列の後ろに並びます。

それを、たぶん一学期分くらいやりました。

わたしも一度、手本を見せようとしました。回れました。回れたのですが、着地したとき、腰のあたりで、これまで聞いたことのない音がしました。以来、手本は年長さんにお願いしています。

ある日、そうたくんが四回続けて同じところで止まったあと、こう言いました。

「いま、れんしゅうの とちゅう」

わたしは「そうだね」としか言えませんでした。それから、そうたくんはこう続けました。

「きょうは、ここまで」

そして、砂場へ行きました。

自分で「ここまで」と決めて帰れるのは、すごいことだと思います。大人でも、なかなかできません。

回れたのは、それから二週間ほどたった水曜日の朝でした。

朝いちばんの外遊びで、たいした前ぶれもなく、するっと回りました。本人がいちばん驚いた顔をしていました。

そして、着地して最初に言った言葉は、「できた」ではありませんでした。

「みてた?」

……見ていませんでした。

わたしはちょうど、うさぎのゴッピが小屋のすきまからお尻だけ出しているのを、押し戻しているところでした。振り向いたときには、そうたくんはもう砂の上に立っていました。

嘘をつくこともできました。「見てたよ!」と。一秒くらい、迷いました。

でも、言いました。

「ごめん。ゴッピのお尻、見てた」

そうたくんは、しばらくわたしの顔を見て、それから鉄棒に戻って言いました。

「じゃあ、もういっかい やる」

二回目も、回れました。今度は、ちゃんと見ました。

「できた!」は、花です。きれいで、目立って、写真にも撮れます。

でも、花が咲く前に、地面の下では、根っこがずっと伸びています。四回止まって、自分で「ここまで」と決めて、次の日また並ぶ。写真には写らないその部分が、根っこです。

そうたくんがあの二週間で本当に手に入れたのは、前回りではなくて、「自分でやってみた」という、あの誇らしい顔のほうだったと思います。

そして、根っこに必要なのは、何ひとつ見逃さない大人ではないのだと思います。見逃したあとに、「もう一回、見せて」と言える誰かのほうです。

幸い、前回りは、二回でも三回でも回れます。

第4章 — 十秒は、たぶん二秒

「叱る」より「待つ」にはコツがある

ある朝、園の玄関で、まきさんが困っていました。

まきさんは、そうたくんのお母さんです。フルタイムで働いていて、朝はいつも、時間と競争しています。

その朝、そうたくんは玄関で靴を脱ごうとしていました。かかとのところに指を入れて、自分で脱ごうとして、うまくいかない。もう一回入れて、また、うまくいかない。

まきさんの視線が、そうたくんと腕時計のあいだを、三往復しました。四往復目で、しゃがんで、脱がせました。

そうたくんは「じぶんで!」と怒り、まきさんは「もう、時間ないの!」と言い、二人とも少しだけ嫌な気持ちのまま、その日の朝が始まりました。

引き渡しのとき、まきさんが小さい声で言いました。

「……わたし、待てないんですよね」

わたしは言いました。

「待つのって、時間があるときにしか、できないですもんね」

まきさんは少し笑って、それから、なぜか少しだけ泣きそうな顔になりました。

わたしも、待てるようになったわけではありません。ただ、試していることは、いくつかあります。

まず、「十秒だけ待つ」と決めてみる。無限に待とうとすると、待てません。十秒なら、たいてい待てます。もっとも、焦っている朝の十秒は、なぜか二秒くらいで終わります。あれは本当に不思議です。

十秒がもたなかったときは、気持ちに名前をつけてみます。「わがまま言わないの」ではなく、「じぶんで やりたかったんだね」と言ってみる。うまくいくと、その子の中にある名前のない大きなものが、少しだけ小さくなります。名前がついたものは、持ち運べるようになるからだと思います。

それでも時間がなければ、宣言します。

「今日は、先生がやる日!」

こっそり手を出されるのを、子どもはとても嫌がります。でも、堂々と宣言されると、案外すんなり受け入れてくれることがあります。

——という話を、わたしはうっかり、まきさんにしてしまいました。

一週間ほどして、まきさんが報告してくれました。

「言ってみたんです。『今日はママがやる日!』って」

「どうでした?」

「『いやだ』って言われました」

玄関で、二人で笑いました。そういうものです。効く日と、効かない日があります。というより、効かない日のほうが、たぶん多いです。

待つというのは、放っておくことではありません。「この子は、いまやっている途中だ」と信じて、そばにいることです。

でも、信じるにも体力がいります。寝不足の朝に、体力はありません。

だから、待てなかった日のことは、責めなくていいと思っています。

今朝は間に合わなかった。それだけのことです。

明日の朝、また一回だけ待てたら、それでいいのだと思います。

第5章 — 車でバナナを食べた朝

ママががんばらなくても育ってる

寝坊した朝の話をします。

まきさんが寝坊した日、そうたくんは、前髪が完全に横を向いた状態で登園してきました。靴下は、右が水色で、左が白でした。そして園庭に入るなり、大声で、みんなに報告しました。

「きょう! くるまで! バナナ たべた!」

その日、そうたくんの中でいちばん大きな出来事は、寝坊ではありませんでした。「車の中でバナナを食べた」という前代未聞の大事件のほうでした。しかも、うらやましがられていました。ののかちゃんは「いいな、わたしも くるまで たべたい」と言っていました。

まきさんは、玄関で三回謝りました。髪のことと、朝ごはんのことと、靴下のこと。

わたしは、たぶん十回くらい「大丈夫ですよ」と言いました。

そこへ、ののかちゃんのお母さんのゆうこさんが来て、こう言いました。

「うち、先週、上履き忘れて、はだしで練習してましたよ。本人、その日いちばん速かったです」

まきさんは、ようやく笑いました。

もうひとつ、まきさんから聞いた話があります。

ある夜、まきさんは、そうたくんを大きな声で叱りました。理由は、まきさん自身、あとから思い出せなかったそうです。片づけか、歯みがきか、そのあたり。とにかく疲れていて、声が大きくなって、そうたくんは泣いて、まきさんも、あとで一人で少し泣いた。

その夜、寝る前に、そうたくんが言ったそうです。

「ママ、あした、ようちえん いっしょに いこうね」

毎日いっしょに行っています。特別な約束でもなんでもありません。それなのに、わざわざ言った。

少なくともその夜のそうたくんは、怒られたことより先に、「またあした」のほうを差し出しました。

がんばれた日も、がんばれなかった日も、同じ長さの一日として過ぎていきます。

そういえば、そうたくんが翌朝みんなに報告するのは、たいてい、がんばりの量とはまったく関係のないことです。車の中のバナナとか、そういうことです。

そうたくんを見ていると、大人が満点ではない日にも、子どもの一日は、ちゃんと続いていくのだと思います。ちょっとくやしいくらいに、たくましく。

第6章 — 砂まみれの手紙

子どもの言葉は、未来からの手紙

保育士をしていると、たまに、手紙を受け取ります。

封筒には入っていません。だいたい、砂まみれの手で、通りすがりに渡されます。

いくつか、開けてみます。

ひとつめ。

泣いている子の隣に、ののかちゃんが座っていました。何も言わずに、ただ座っている。五分くらい、そのまま。

あとで聞きました。「なにも言わないの?」

「ないてるときはね、ことばが きこえないの。だから、すわるの」

ふたつめ。

帰りの支度をしていた子が、急にわたしを見上げて、聞きました。

「せんせいは、いつ おとなに なったって わかったの?」

わたしは正直に答えました。

「まだ、わかってない」

その子はうれしそうにうなずいて、こう言いました。

「じゃあ、おなじだね」

みっつめ。

これは、いちばん効きました。

いつもより疲れていた夕方、帰りぎわの子が、玄関でふりむいて、聞きました。

「せんせい、きょう、たのしかった?」

自分の一日ではなく、わたしの一日を聞かれたのは、その日がはじめてでした。

子どもの言葉は、未来からの手紙みたいだと思うことがあります。

これから大きくなっていく子が、いつのまにかいろいろ忘れてしまう大人に向けて、先に送ってくれている。「泣いているときは、言葉が聞こえない」なんてこと、わたしはとっくに忘れていました。

教えているつもりで、しょっちゅう教わっています。たぶん、受け取っているものの量は、こちらのほうが多いです。

きっと、あなたのおうちにも届いているはずです。忙しいと、開封しそびれます。それでも、手紙はちゃんと届いています。今日のどこかで、一通くらい。

第7章 — ゴッティは、いま考えてる

教育は「一緒に生きていく」こと

かめのゴッティは、動きません。

正確には、動きます。ただ、こちらの都合では動きません。

秋のある日、子どもたちがゴッティを園庭に出しました。日なたに置いて、まわりにしゃがんで、みんなで待ちました。ゴッティは、首を三ミリくらい出したところで、止まりました。

五分たちました。まだ三ミリです。

十分たちました。三ミリのままです。

わたしは、そろそろ次の時間が気になりはじめていました。製作の準備もあるし、給食もある。それで、つい言いました。

「ゴッティ、今日は動かないみたいだね。そろそろ中に入ろうか」

そうしたら、しゃがんでいた子のひとりが、ふりむきもせずに言いました。

「せんせい、ゴッティは いま、かんがえてるの」

わたしは、その場に座りました。

結局、ゴッティは、そのあと十五分ほどしてから、ゆっくり歩きました。子どもたちは拍手をしました。製作の時間は少し削れました。誰も困りませんでした。

この園に碁盤があるのは、囲碁を上手にさせたいからではありません。

石は、一度にひとつしか置けません。ひとつ置いたら、次は相手の番です。自分の番が来るまでは、待つしかありません。そして、待っていれば、番はまた必ずまわってきます。

ルールを知らなくても、それだけは体に残ります。ひとつずつ、順番に、そしてまた次がある。

子どもの育ちも、たぶん同じです。今日置けたのは一手です。明日も一手です。何十手も先にどんな形になるのかは、誰にもわかりません。わからないまま、一緒に置いていくしかない。

教育というと、上にいる大人が、下にいる子どもに、何かを渡すことのように思われがちです。

でも、この仕事を続けてきて思うのは、そうではなくて、ただ、同じ時間を一緒に生きているだけだ、ということです。

わたしは先生ですが、実質、子どもたちのちょっと年上の同級生みたいなものです。あの日、ゴッティを待てなかったのはわたしのほうで、待てたのは子どもたちのほうでした。

大人も、まだ育っている途中です。

だから、あなたも、まだ途中で大丈夫です。

おわりに — あなたのとなりに、まゆ先生がいますように

そろそろ、目が重くなってきたころでしょうか。

明日の朝も、たぶん、バタバタします。靴下は片方見つからないし、「行きたくない」と言われるかもしれないし、家を出る三分前に、とても大事な話をされるかもしれません。子どもは、なぜかいつも、そのタイミングで大事な話をします。

それでも、大丈夫です。

もし明日うまくいかなかったら、思い出してください。この本のどこかで、まゆ先生という保育士が、おでこにたんこぶを作って、集合写真で前髪を下ろしていたことを。ゴッピのお尻に気を取られて、大事な瞬間を見逃していたことを。

完璧な大人のそばで、子どもが育つわけではありません。

となりにいて、たまに見て、たまに見逃して、それでも次の日もそこにいる。それだけで、じゅうぶんです。

ごはんだったり、お風呂だったり、寝かしつけだったり。うまくできたことも、できなかったことも抱えたまま、あなたは今日を、ここまで連れてきました。

それで、一手です。

明日も、一手だけで大丈夫です。

大丈夫、ちゃんと育ってるよ。

子どもも、あなたも。

おやすみなさい。

※この物語に登場する園および人物は、わ碁ころ幼稚園の教育観をお伝えするための架空の存在です。