わ碁ころ幼稚園

おやすみの前の、小さな一手

── わ碁ころ幼稚園の、ある一日のこと

冷蔵庫の中のミニカー、三度目の「あと五分」、つい出てしまった強い声。仕事と育児に追われるお母さんと、石を三回取られても「もういっかい」と言う男の子の、ある一日を描いた物語です。

※「わ碁ころ幼稚園」は、物語上の架空の教育世界です。この物語の登場人物・出来事は、実在の施設・人物・実績・相談事例を示すものではありません。

一 冷蔵庫の中のミニカー

十九時四十分。

まきさんは、その日三度目の「あと五分」を聞いていた。

一度目の五分は、たしかに五分だった。二度目の五分は、十二分だった。三度目の五分がどれくらいの長さになるのか、まきさんにはもう見当がついていて、それが余計にこたえた。

お風呂の追い炊きボタンは、すでに二回押している。

洗い物は半分。明日の連絡帳は白いまま。洗濯機の中では、洗い上がった衣類が、静かにしわを深めているところだった。

麦茶を出そうとして冷蔵庫を開けたら、ミニカーが冷えていた。

二台。

並べ方が妙にていねいで、たぶん、これは駐車場だ。

まきさんは、冷えたミニカーを右手に持ったまま、二秒くらい立っていた。笑ってもよかったのだと思う。でもその日は、笑うための余白が、指先まで来ていなかった。

「もう、いいかげんにして!」

自分の声が、思っていたより大きく台所に響いた。

そうたくんは、いっしゅん、動きを止めた。それから、しずかにお風呂場へ歩いていった。ふりかえらなかった。

その後ろ姿を見た瞬間から、まきさんの夜は、少しだけ重くなった。

お湯の音を聞きながら、まきさんは残りの洗い物をした。手は動くのに、頭のほうはさっきの声のところで止まっていて、何度も同じ場面を再生していた。

――怒りたかったわけじゃないのに。

その日が、朝からうまくいっていなかったのも、たしかでした。

二 サンダルで走った朝

その日の朝、まきさんは十分寝坊した。

十分というのは、微妙な数字だ。全部あきらめるには早すぎるし、間に合わせるには足りない。

そうたくんは、パジャマのズボンだけ脱いだ状態で、リビングの床にいた。上半身はまだパジャマ。手には、なぜか昨日の折り紙。

「そうた、着替えて」

「これ、まだつくってるとちゅう」

「あとでね」

「あとって、いつ?」

まきさんは、その質問に答えるかわりに、シャツを頭からかぶせた。腕がなかなか袖に入らなかった。折り紙を持ったままだったからだ。

玄関で、靴を左右逆に履こうとしているのを直した。

そこで、時計を見た。

「もう、なんでいつもこうなの!」

強い声が出た。出たあとで、しまった、と思った。

そうたくんは、下を向いて、靴のかかとをとんとんと鳴らしていた。

まきさんは、大きく息を吸って、それから言った。

「……走ろっか」

「はしる?」

「うん。走らないと、間に合わない」

そうたくんの顔が、そこで急に明るくなった。遅刻ぎりぎりという事情の深刻さは、たぶん一ミリも伝わっていなかった。

ふたりは手をつないで走った。まきさんは、サンダルで。

ぱたぱた、ぱたぱた、と、間の抜けた音が住宅街に響いた。

門に着いたとき、まきさんは息が上がっていて、髪はほどけかけていて、そうたくんは、なぜかとても満足そうだった。

「いってきます」

そうたくんは、そう言って走っていった。

まきさんは、その背中を見送りながら、朝の自分の声のことを思い出していた。

――今日も、怒っちゃったな。

三 「なんで、なんでっていうの?」

そのお昼すぎ。

わ碁ころ幼稚園では、そうたくんの「なんで?」が、絶好調だった。

「せんせい、なんで、そらはあおいの?」

まゆ先生は、光のぐあいとか、空気のつぶとか、そういう話をなんとかやさしく言おうとして、途中で自分でもよく分からなくなった。

「なんで、みずはぬれてるの?」

これも、うまく言えなかった。

「なんで、きゅうしょくのにんじんは、はなのかたちなの?」

これは、答えを知っていた。かわいいからです。でも、そう言うと、なぜかそうたくんは納得しなかった。

「なんで、せんせいは、せんせいなの?」

まゆ先生は、そこでとうとう、言葉を探すのをやめた。

「……先生も、たまに、ふしぎに思う」

そうたくんは、たいそう満足そうな顔をした。答えをもらったわけでもないのに、なぜだか、うなずいていた。

そこでまゆ先生は、ひとつ聞いてみた。

「そうたくんは、なんで、なんでって聞くの?」

そうたくんは、まじめな顔で天井を見て、けっこう長いこと考えて、それから言った。

「わかんない。でも、きになる」

まゆ先生は、その言葉を、ポケットに入れておくみたいに覚えた。

もっとも、その日の「なんで?」は、そのあと夕方まで続きました。まゆ先生は途中から、正直、ちょっと疲れていました。

四 まゆ先生の、左右ちがいの靴

まゆ先生は、完璧な先生ではありません。

その日、まゆ先生は、上ばきを左右逆に履いたまま、午前中をまるごと過ごしていた。

教えてくれたのは、ののかちゃんだった。

「せんせい、あし、はんたい」

まゆ先生は自分の足元を見て、しばらく黙って、それから「ほんとだ」と言った。

ののかちゃんは、笑わなかった。かわりに、ちょっと心配そうな顔で聞いた。

「いたくない?」

「……ちょっとだけ、へんだった」

「はやくいえばよかったのに」

それはそのとおりだった。まゆ先生は、はい、と素直に言った。

大人はときどき、へんだなと思いながら、そのまま半日歩いてしまう。誰かが「はんたいだよ」と言ってくれるまで、自分でもよく分からない。

子どもも、うまく言えない「へんな感じ」を抱えたまま、遊んでいることがある。

ただ、分からないまま急いで決めつけることだけは、今日は少し待ってみようと思いました。

そのあと、上ばきを履きかえたまゆ先生は、しばらく、足の裏がやけに気持ちよかったそうです。

五 取られたら、くやしい

午後、部屋のすみに、小さな碁盤が出ていた。

わ碁ころ幼稚園にある碁盤は、とても小さい。線も少ない。石も、指でつまむというより、手のひらでぺたっと置く感じの、まるいものだ。

囲碁を知らなくても大丈夫です。この日そこで起きたことは、こうです。

そうたくんが、じぶんの石を、ぺた、と置いた。

ののかちゃんが、そのとなりに、ぺた、と置いた。

置く前に、そうたくんは、ほんの少しだけ手を止めた。ここかな、あっちかな、という顔をしていた。時間にすれば、二秒くらい。

その二秒のあいだ、ののかちゃんは待っていた。

そうしているうちに、そうたくんの石が、ののかちゃんの石にかこまれて、取られた。

そうたくんの顔が、みるみる赤くなった。

くやしさが、体いっぱいに広がっていくのが分かった。手が、次の石の入れ物のほうへ、勢いよくのびた。

「そこは、止めるね」

まゆ先生は、その手にそっと手を添えた。

責めるための声ではなくて、この時間を守るための声だった。

そうたくんは、その手を引っこめて、しばらく盤を見ていた。ののかちゃんも、どうしていいか分からない顔で、盤を見ていた。

まゆ先生は、何も言わなかった。

言いたいことは、いくつかあった。でも、そのどれも、今出すには少し早い気がした。目は、離さなかった。ふたりの手が動けば、すぐに入れる距離にいた。

しばらくして、そうたくんが言った。

「……もういっかい」

勝つための一手ではなくて、さっきの盤面を、少しだけ違う場所から見てみるための一手だった。

ののかちゃんが、ちいさく「いいよ」と言って、石を集めはじめた。

そのあと、そうたくんはまた取られて、また赤くなって、また「もういっかい」と言った。三回目で、なぜかふたりとも笑い出して、石をぜんぶ手のひらにのせて数えるだけの遊びが始まった。

それはもう、囲碁ではありませんでした。

でも、まゆ先生は、そのままにしておきました。

六 門のところで

夕方、まきさんが門のところに来たとき、その顔は少し疲れていた。

「先生、あの……わたし、けさも、怒っちゃって」

まきさんは、そう言ってから、少し早口になった。

寝坊したこと。着替えないこと。急かしてしまったこと。玄関で強く言ってしまったこと。それを、一日じゅう思い出していたこと。

まゆ先生は、正しい関わり方を渡すかわりに、ひとつだけ聞いてみた。

「そのあとは、どうされたんですか」

まきさんは、少し考えて、言った。

「……手をつないで、走りました。遅刻ぎりぎりで」

「走ったんですね」

「はい。走りました。わたし、サンダルで」

そこでまきさんは、自分でちょっと笑った。まゆ先生も笑った。

「怒らないほうがいい、って、みんな言うんですけど」

まきさんの声が、少し小さくなった。

まゆ先生は、すぐには答えませんでした。

「怒ってしまった日のことは、なかったことにはならないと思います」

まゆ先生は、そう言った。

「ただ、その日の中に、それだけしかなかったわけでもない、とも思っていて」

まきさんは、黙っていた。

「今日、そうたくん、ここで三回くらい取られて、三回とも『もういっかい』って言っていました」

「……そうですか」

「くやしいままでも、もう一回やれる子なんだなあと思って。先生、ちょっとうらやましかったです」

まきさんは、門の向こうで走り回っているそうたくんを見た。

砂場のふちを、意味もなく往復していた。

七 まだ、早いですか?

帰りぎわに、まきさんは思い出したように聞いた。

「先生、あの、囲碁って……うちの子には、まだ早いですか」

「早いか遅いかは、先生にも分かりません」

正直すぎる答えだった。まきさんが少し笑ったので、まゆ先生も笑った。

「ただ、今日、石を置く前に、二秒くらい止まっていました」

「二秒」

「はい。二秒です」

「……それって、意味あるんですか」

「分かりません」

まゆ先生は、そう言ってから、少しだけ付け足した。

「でも、あの二秒は、誰かに言われて止まった二秒ではなかったので」

まきさんは、盤のほうを見た。石はもう片づけられていて、ただの小さな板になっていた。

「先生は、囲碁を教える人なんですか」

「教えることも、あります。でも前に、子どもの『まだ分からない』を、何度か追い越してしまったことがあって」

そのときに残ったのは、怒りよりも、悲しさだった。

まゆ先生は、片づけられた盤を見た。

「だから今は、教える人というより、石を置く前のあの時間を、そばで見ていたいのかもしれません」

「まだ、やりたいとも言わないですけどね。うちの子」

「言わない日も、ありますよね」

まきさんは、うなずいた。

八 ゆうこさんの、からあげ

門のところには、ののかちゃんのお母さんのゆうこさんもいた。

ゆうこさんは、まきさんの話を、半分くらい聞いていた。残りの半分では、自転車のかごに入れた買い物袋の位置を直していた。

「うちも今朝、すごかったよ」

ゆうこさんは、あっさりそう言った。

「ののか、靴下はきたくないって二十分やって、けっきょくはだしで玄関出た。途中ではいたけど」

「二十分……」

「二十分。あれ、なんなんだろうね」

まきさんは、少し笑った。

「あと、うちは今日の晩ごはん、からあげ」

「えらい」

「ちがうちがう、買ってきたやつ」

ゆうこさんは、かごの中の袋を指さした。

「作る日もあるよ。今日は、ない日」

そう言って、ゆうこさんは自転車にまたがった。

「まきさん、走ったんでしょ。サンダルで。それ、けっこうすごいよ」

「すごいですかね」

「わたし、たぶん走らないで、車出しちゃう」

ゆうこさんは笑って、ののかちゃんを乗せて帰っていった。

まきさんは、その背中を見送りながら、肩の力が少しだけ下りるのを感じた。

ゆうこさんは、助言をしたのではなく、自分の今日を話しただけでした。

九 まゆ先生のノート

子どもたちが帰ったあと、まゆ先生は、机の引き出しからノートを出した。

そこには、その日に聞いた言葉が、ぽつぽつと書いてある。

その日、まゆ先生が書いたのは、三つだった。

わかんない。でも、きになる。

せんせい、あし、はんたい。

もういっかい(三回)

書きながら、まゆ先生はちょっと笑った。

二つめは、どう考えても自分の失敗の記録だった。それでも、書いておきたかった。

ページの下のほうには、ずいぶん前に書いた一行が残っている。

こまらせたかったのでは、なかったのかもしれない。

まゆ先生は、それをちらっと見てから、ノートを閉じた。

電気を消して、上ばきは、ちゃんと左右そろえて置いた。

十 今日を、ちがう順番で

そして、この日の十九時四十分が来ます。

冷蔵庫の中のミニカーと、思っていたより大きく出てしまった声。ここまでは、はじめに書いたとおりです。

その少しあと。

お風呂から出て、髪をふきながら、そうたくんが言った。

「きょう、ママ、おこったね」

まきさんの心臓が、すこし縮んだ。

「……うん。ごめんね」

そうたくんは、うん、と言った。それから、まるでその話が終わったみたいに、こう続けた。

「あさ、はしったの、たのしかった」

まきさんは、返す言葉をさがした。見つかる前に、そうたくんが続けた。

「ママのサンダル、ぱたぱたいってた」

そして、ぱたぱた、と自分で口で言って、なぜか大うけしていた。ひとしきり笑って、そのままタオルを頭にかぶって歩き出して、壁にぶつかっていた。

まきさんは、まだ少し湿った頭を、なでた。

怒ってしまったことが、なくなるわけではない。

それでも、その夜、まきさんは気づいた。

今日という日を、この子は、わたしが思っていたのとは、ちがう順番で覚えている。

わたしがいちばん濃く覚えているのは、玄関で出した自分の声だった。

この子がいちばん先に思い出したのは、そのあとの、ぱたぱたという音だった。

そういえば、と、まきさんは思った。

冷蔵庫のミニカーのことを、まだ聞いていない。

あれは、たぶん、駐車場だったのだと思う。明日、聞いてみようか。

十一 おやすみの前に

もし今日、あなたの一日が、うまく片づかないまま夜になったのだとしても。

たぶん、その日の中には、あなたが数えていないものが、いくつか残っています。

こぼれた麦茶をふいた手。

冷蔵庫の中のミニカーを、笑えなかったけれど、そっと元の場所に戻したこと。

連絡帳にも書かないし、写真にも撮らない。誰にも褒められないまま、次の日が来ます。

子どもは、いろいろな人のまなざしの中で、少しずつ育っていきます。

その中には、あなたのまなざしも、ちゃんとあります。

今日の最後の一手は、もう置かなくて大丈夫です。

明日の朝には、盤面はまた、少しだけ変わっています。

まゆ先生も、今日、上ばきを左右逆に履いていました。

大人も、途中です。

おやすみなさい。

本作に登場する「わ碁ころ幼稚園」は、実在の幼稚園・保育施設ではありません。まゆ先生も実在の人物ではなく、子どもの心の育ちを見つめるための物語上の案内人です。本作は、医療・発達診断・専門的な育児指導を目的としたものではありません。子育てに関する不安が大きい場合や、発達・健康・家庭環境に関する具体的な困りごとがある場合は、地域の相談窓口や専門機関にご相談ください。